高岡市議会 2011-09-03 平成23年9月定例会(第3日目) 本文
司馬遼太郎の小説「城塞」には、関ヶ原の合戦の後、石高が100万石を超える日本最大の大名となった前田家二代藩主利長が隠居し、晩年を迎える城として「越中高岡城」という言葉が出てきますが、この高岡城跡は築城から400年以上たった現在も築城当時の縄張りがほぼ現存しており、日本の100名城にも選定されている史跡であります。
司馬遼太郎の小説「城塞」には、関ヶ原の合戦の後、石高が100万石を超える日本最大の大名となった前田家二代藩主利長が隠居し、晩年を迎える城として「越中高岡城」という言葉が出てきますが、この高岡城跡は築城から400年以上たった現在も築城当時の縄張りがほぼ現存しており、日本の100名城にも選定されている史跡であります。
さて、高岡の開町は、前田家2代藩主利長がこの地に城を築き高岡の礎を築いたことは御承知のとおりであり、ことし開町400年を祝うことができるのもまことにめでたいことであります。 しかし、1614年に、一国一城令により高岡城は廃城となり、家臣が金沢へ引き揚げた後の高岡は、残念ながら衰退し始めたと言われております。
金沢市が進めている調査研究の機運をとらえ、前田家墓所の全体像を理解するためには、高岡にある2代藩主利長公墓所の調査研究も欠かせない課題だと思います。高岡市は、金沢市と連動して利長公墓所の調査に力を入れ、金沢と同時でなくても、せめて開町400年記念に国の史跡指定を目指してはどうかと思うのであります。
これは御承知のとおり、高岡御車山は天正16年、豊臣秀吉が後陽成天皇と正親町上皇を聚楽第に迎え奉るときに使用したものでありまして、加賀藩初代藩主前田利家が秀吉より拝領し、二代目藩主利長が慶長14年に高岡城を築くに当たり町民に与えたのが始まりと伝えられております。京都祇園の祭礼に倣って鉾山に改造されておりますが、きょうに至るまで高岡の発展とともに継承されてきました。
前田利長公墓所は、加賀藩3代藩主前田利常が兄であり2代藩主利長の冥福を祈り遺徳をたたえるため、その33回忌に当たる正保3年、1646年に利長の遺骸を火葬に付した後に御廟を造営したものであります。
その後ロケがどのような形で決定しているのかわかりませんが、二代藩主利長が高岡城を築き、三代目藩主利常が高岡の発展を図るなど、加賀百万石と非常にゆかりの深い高岡にとって、この大河ドラマの放送を利用し高岡に来訪者増を考え、またにぎわいを生み出すためどのような対策を立てておられるのか、商工労働部長にお伺いをいたします。 次に、この項最後のなべ祭りについてであります。
今さら申すまでもなく、高岡は、利家の子、加賀藩二代藩主利長により開かれ、慶長14年には利長は高山右近に設計を依頼し、隠居城として高岡城を築いております。
そして、何よりも私ども期待ができますのは、高岡の開町の祖2代藩主利長と瑞龍寺を建立された3代藩主利常がドラマの重要な部分を担っていただけるのではないかというふうに思っております。
前田利家とお松の方がNHKの大河ドラマに取り上げられ、「利家とまつ~加賀百万石物語」として2002年に放映が決まったことは、2代藩主利長が高岡城を築き、また3代藩主利常が高岡の発展を図るなど、加賀百万石と非常にゆかりの深い高岡にとりまして大変うれしく思っている次第でございます。